第一章 中琉関係と拳

 空手の歴史を考えるには、当時の琉球と中国の社会、ならびに、その当時の両国の関係を知っておくことは重要です。本章では、琉球が中国と関係を持ち始めた14世紀以降の琉球社会、明・清との交易関係に関する概要を記述するとともに、北宋・南宋・元・明・清、および、1990年代までの拳の変化を、当時の社会背景との関連付け、各時代の有名武術家・有名拳の紹介、文献からの抜粋などを行いながら説明します。また、図・写真なども数多く記載されています。


要約 [4ページ〜29ページ]

沖縄略史

 琉球に統一王朝ができたのは15世紀である。その頃に中国の冊封体制下に入り、中国との交易が頻繁に行われるようになる。中国は琉球国王が代る時に新王の任命を行うために冊封使を派遣。この使節の滞在期間は七・八ヶ月におよび、琉球国第一の行事であった。その間、使節を応対する者以外の人が唐人と接することは法度であった。冊封は1404年から1866年まで行われ、二十三回行われたと言われている。

 琉球国の社会は平和な社会であったが、きびしい世襲の身分制度があった。1609年に薩摩島津家により征服され、以降島津家に従属させられる。この時、民衆から武器を取り上げた。中琉貿易に関しては、徳川家・島津家にとっても魅力的であり、琉球国は引き続き中国の冊封体制下で交易を行う。
 冊封体制下では、琉球国から中国へ使節を派遣することも行われ、これらが貿易の中心となっていた。この貿易は主に進貢船・接貢船などにより行われた。進貢船とは琉球王国が北京に派遣する使節であり、使臣・水手等からなる百五十名から二百名の一行である。中国側の玄関口は現在の福州にあった柔遠駅で、この一行は三月頃に那覇から福州に着き、翌年の五・六月頃福州から那覇に向かうというように長い時間中国に滞在していた。この間、十数名程度の使臣のみが水路・陸路を使って北京に向かい、他は福州に滞在し、交易を行った。このような使節は、正式には五年に一貢であったが、実際は色々な使節を不定期に派遣していた。進貢使節には留学生もおり、琉球国王が王族の子弟を北京の国子監に送る官学、および、福州で勉強する自費留学である勤学は、明・清時代を通じた合計でそれぞれ四百名、千名ぐらいであった。

中国社会と拳

 中国は、北宋の頃より南方が拓ける。武術は、「王安石」が募兵制から府兵制に変更したため、多くの人が武術訓練を受けることになった。これが武術の全国普及につながった。都市部では、各種芸人の表演中に武芸を取り入れはじめ、実戦より表演が中心になってきた。拳に関する記録は幾つかの軍事論の著書に見られ、また、明初の歴史家・武術家・拳家であった「施耐庵」の著書「水滸伝」には、北宋末の拳に関する記述が多くある。
 南宋になると、社会が大衆化し、売芸風が盛んになった。拳もこれに関わるようになり、花套武芸が大量発生した。
 元は極端な迷信社会で、武術もこの影響を受けた。仏教・道教ともに呼吸訓練を取り入れ、このような身体の鍛練に武術が取り入れられた。武術は民間では禁止されたため、民間の武術は道教・仏教に入るか、養生に進路を取るなどもあったが、主に運輸にかかわる無頼集団を中心に保持された。結果、技術の質的低下がおきた。
 明になると、江南が発展する。明は武挙により民間から武に長じた者を登用した。故に武術は盛んになった。南少林寺の拳もこの時代に大きく発展。しかし、民間武術は実用性よりも外形に重点が置かれていた。武官であった「威継光」は練兵時には表演化を禁止していたが、このような批判をよそに套路化が進んで行った。この頃より、次第に南拳が形成され始めた。北派の素早い動きに対し、拳・小手を鍛えて対抗しようとし、漢方を取り入れた。
 清初期は、武術が大きく発展した時代である。国家は武術養成学校として武学を設立。個人でも武術団体を組織した。故に多数の流派が発生した。中期になると、民衆の習武が禁止され、民間では武術を秘密裏に行った。後期になると、政治の弱体化と共に、民間でも公然と道場を開き、武術指導する者が表れてきた。明末清初に少林寺は反清復明の拠点となり、清朝による二度焼かれ、秘密結社は各地に分散、その力は二百年以上続き、太平天国へと引き継がれた。これに伴ない、少林拳が全国に様々な形で伝わった。
 清末から1990年頃には、様々な拳があるが、これらは主に北派と南派に分類される。南宋ころから拳の南進が始まり、人種・自然環境・生活環境などの違いにより北派とは異なる南拳が形成され、今日に至っている。