第二章 拳の伝来

 空手は、明清時代に中国から伝来した拳の一部から生じたものです。本章では、このことを踏まえ、空手の初期、中期、18世紀後期から19世紀前期、19世紀中期、19世紀後期の各時代における形態、および、代表的な人物などを挙げながら、どのように伝承されてきたかについて説明しています。

要約 [30ページ〜42ページ]

初期

 拳の琉球伝来に関する文献は、中国・琉球共に見当たらない。中国側では、逝江省杭州、福建省泉州、福建省福州から拳が琉球に伝わり始めたと言われている。地理・当時の中琉関係などからそれぞれ可能性はある。琉球側では、大正から昭和にかけての空手界の第一人者らは三百十年から三百五十年前の歴史を持つと言っていた。これらから、中国では明末、琉球では第二尚氏の尚寧王・尚豊王・尚賢王の時代であると考えられる。現在の琉球武術と異なる古い形の武術が本部家に伝わっていた。本部家は、1666年に本部間切りを拝領した第二尚氏十代の第六子、本部王子朝平が始祖である。これは中国的な技術で、軍隊形式である。これ以前を考えると、1609年の島津家侵略後の禁武、尚寧王(1588年〜1620年)以降の明の冊封使の文官から武官への変更などを考えると、この時代に中国武官から軍隊武術を学び、尚家で行っていた武術に加えて形成されたと考えられる。これが拳の伝来の最初と考えられ、伝承とも一致する。これは、本部王子朝平の二〜三代前に尚王室で武術形成されたことを示している。
 民衆は中国人との接触は禁止されていたため、中国の技術は、王室関係者の一部にだけ秘密裏に伝えられた。中国人の滞在期間は短いため、学ぶ技術は二・三技である。その後、朝貢関係者で拳を学んで帰国するものも生じる。これと共に、サイ・ヌンチャク・トンファ等も入る。

中期

 1682年、1695年の二度にわたり、中国文官である汪楫(ワンシュン)が正使として派遣されている。空手の型で最古と思えるものに、「汪楫」がある。当時の文官でも拳は盛んであった。1761年に琉球船が土佐大島浦に漂着した。これに関する文献「大島筆記」に空手に関する記事があり、「公相君」による組合術に関して記載されている。空手の型に「公相君」があり、これは公相君から伝承された技術である。

十八世紀後半から十九世紀前期

 18世紀後期から19世紀前期を見ると、琉球では一般民衆も手(当時は空手を「手」と呼んでいた)に関心を持つが、武術は士が行ない、秘密主義であり、指導者は文・出自から選んで1対1の個人指導を行った。手は首里・那覇を中心に行われた。那覇では、福州からの移住者が住む久米村で、蔡世昌のように福州から拳を学び、伝えるものが出て来る。また、唐手佐久川や真壁チャーンのように北京への留学で北派拳を学んだ者もいた。秘技の「三角蹴び」・「天井蹴り」などは彼らが伝えた技術である。

十九世紀中期

 19世紀中頃になると、役人達に手の修行者が増えてきた。拳の琉球伝入は柔遠駅のあった福州であった。しかしながら、琉球人の滞在期間は短いため、初歩的な技術に終始した。これは、手の技が少ないこと、拳の一部しか手に見られないことなどからわかる。当時の琉球での伝授は、1対1の長期間にわたる個人指導であった。当時の有名武術家に松村宗棍がいる。手は首里・那覇と共に泊でも行われた。

十九世紀後期

 空手の型は、18世紀後期から形成され始め、19世紀に盛んに形成されことが、型の名称、南拳と空手の比較などからわかる。この頃になると、首里では琉球王族や高級官吏で松村に手を学ぶ者が増えてきた。那覇では、久米村の手の存在が、新垣世璋が十三(セーサン)の型を冊封祝賀会で披露したことで知られるようになった。しかしながら、明治初年の清国と日本の対立による反日感情により、福州の拳を伝えてきた人々は福州に逃れていった。そのため、久米村の手は次第に消えて行く。
 拳の伝来に大きな影響を与えた中国の拳家に謝崇詳(1852年生)がいた。父は謝尊志で羅漢拳を学んでいた。福建方面では如如哥(ルールーコー)と言う。彼は、手の形成に大きな貢献をした東恩納寛量に南拳を教えた拳家である。白鶴拳・羅漢拳を学んでおり、後に鳴鶴拳を形成した。