第三章 手の形成

 手は明治後期に糸洲安恒・東恩納寛量により形成されました。本章では、手の形成に関して、彼らがどのような指導を行ったか、どのような考え方をしていたか、どのような技術を持っていたかを詳細に説明しています。型に関しては、古い技術として知花公相君(チバナクーシャンクー)を、糸洲の技術として、五十四歩(ゴジュウシホ)・鎮東(チントウ)・内歩進二段(ナイハンチンニダン)・平安初段(ピンアンショダン)を、東恩納の技術として十三(セーサン)を写真で紹介します。また、これらの技術と比較するために、空手の原点である拳の技術として、南拳の蛇拳・北派の蓮知拳も写真で紹介します。

要約 [43ページ〜105ページ]

糸洲安恒

 明治後期になると、琉球が沖縄県になる、日清関係の悪化に伴ない、福州との往来も疎遠になる。ここに、首里・那覇・泊の技術を生かすために、首里の糸洲安恒が三個所の技術を学び、さらに南拳を学び改良して手を形成した。糸洲は1831年首里儀保村に生まれ、1915年に85歳で逝去。文武にはげみ、科挙に合格し、長年王朝の祐筆役を務めた。主に松村宗棍に学ぶ。また、福州にも渡り南拳を学ぶ。54歳(1885年)で沖縄県庁を退職後、手の研究にとりくみ、首里・那覇・泊の型を集め、また、福建省から沖縄に来ていた拳家に三年間休まず通い、拳を学んだ。糸洲の指導法は、昔から伝わる真の技術に関しては、従来まで同様の厳しい人選と秘密裏に行う個人指導であったが、身体を鍛える運動として、内歩進・平安という型を作り、団体指導を始める。明治34年から首里小学校で内歩進の型の一部を指導し始めるとともに、1908年に手を唐手に変名し、沖縄県学務課に「唐手十ヶ条」を提出、明治38年から師範学校・第一中学校で嘱託として、明治41年から正式科目として指導を始める。沖縄県が唐手を採用した背景には、沖縄県で志願兵を採用した時に、50名の志願者から3名合格したが、この3名全てが糸洲から手を学んでいたこと、沖縄県知事の奈良原繁が示現流免許皆伝で、糸洲の師である松村と同門であること、唐手十ヶ条が国家目的と合致したこと、がある。

東恩納寛量

 糸洲とほぼ同時期に、那覇の東恩納寛量が福州に行き、南拳を学び帰国した。東恩納は1853年那覇西村で生まれ、1925年に逝去。17歳ころから新垣世璋より手を学び始める。東恩納は士族ではなかったが、時代の変化、新垣と知り合いであったこと、東恩納の人格がよかったことが理由で学ぶことができたのであろう。東恩納は、琉球役人の付き人として福州に渡り、洪水で謝尊志の子供を助け、彼の元で働きながら羅漢拳を学ぶ。後に尊志は、息子の謝崇詳(如如哥)から拳を学ぶことを勧める。如如哥は、父に羅漢拳を学んだ後に、永春白鶴拳家から白鶴拳を学んでいた。この時、如如哥は25歳、東恩納は24歳。東恩納は如如哥の最初の弟子であった。東恩納は1879年頃帰国したらしい。東恩納は親中派であり、当時の中国敵視の軍国主義社会では中国の出来事を一切話すことはできなかったため、福州での行動は闇に包まれてしまった。
 東恩納は、帰国後、如如哥から学んだ技術のみを教えた。指導方法は、糸洲同様の個人指導である。本格的指導は明治34、35年頃の人格者として有名な許田重発、更に、宮城長順の入門に始まる。商業学校では団体指導として、型の一部を指導している。指導の中で倫理の重要性を説いている。