第四章 唐手・空手の普及と社会

 明治後期の沖縄県内の普及から県外への普及、昭和初期の状況から現在までの状況を幾つかの年代ごとに説明し、問題点を浮き彫りにします。明治後期の沖縄の唐手の状況、沖縄の唐手がどのようにして日本全国に普及していったかを、明治後期に唐手の普及に大きな影響を与えた糸洲安恒、東恩納寛量が伝えた練習方法、秘技などの技術も含めて、当時の時代背景と関連させながら説明します。続いて、昭和初期から昭和40年代までの空手のスポーツ化による普及、防具試合の導入について述べます。スポーツ化により、空手は全国・世界に普及し現在に至っていますが、結果として過度の競争主義、指導レベルの低さ、これらによる文化としてのレベルの低さが大きな問題となっています。本章ではそれらの問題を正面からとらえ、その反省を述べます。

要約 [106ページ〜172ページ]

初期の普及

 琉球時代から明治初期までの唐手は秘密主義が第一であり、大衆は手の実態をまったく知らなかった。明治後期以降、軍国主義の影響で以前の特権階級を対象とした個人指導から大衆を指導対象に入れた団体指導を行うようになる。この最初が糸洲安恒による、明治34年に始まる首里小学校での団体指導である。以降、明治41年、沖縄県内の師範学校・中学校に正式に唐手が採用される。この指導は当時の第一人者があたる。唐手界最初の道場は、大正6年、那覇で本部朝徳・許田重発・摩文仁賢和による唐手研究会として発足。唐手が県外に知られるようになったのは、大正元年春に海軍が下士官十数名を第一中学校に寄宿させ、約一週間唐手を学ばせたという出来事あたりである。
唐手から空手
 大正11年5月、第一回古武道体育展覧会が東京で開かれた。この時、富名腰義珍が唐手の型を披露。富名腰はそのまま東京に住み、唐手の指導を始めた。大正13年に慶應大学唐手研究会が発足。次いで一高・東大などに次々に唐手部ができる。これらはすべて富名腰が指導。当時、富名腰以外の唐手指導者は本土にはいなかった。しかし、富名腰は当時の沖縄の唐手の権威である糸洲・東恩名の技術を個人指導で長期間学んでいない。そこで、自ら新しい型を作り加え、沖縄の唐手と異なる技術を作りあげた。これが現在広く普及している新空手の基礎的なものである。
 昭和5年、遠山寛賢が浅草に居を構え、修道館を創立。遠山は明治21年首里生まれ。糸洲の高弟で、人格者であった。当時の沖縄唐手界の第一人者である。また、昭和初期に摩文仁賢和が大阪に道場を開き、関西の各大学で指導。摩文仁は糸洲に師事し、また、東恩納の門人の許田重発・宮城長順との接触もあった。そこで、糸洲と東恩納の文字から糸東流を名乗る。これらは沖縄の唐手を本土に伝えるものである。

昭和前期

 昭和11年、軍国主義の台頭により、「唐手」の文字が問題として取り上げられた。軍部から「唐」の文字を使うのをやめ、「空手」に変名せよとの圧力をうけ、唐手座談会として当時の唐手界第一人者を集め、軍隊・警察関係者の監視のもとに「空手」に変名させられた。
 当時の唐手界の状況をみると、本土では東京・大阪の大学・道場で数箇所指導されていたが、広くは知られていない。沖縄では学校での指導以外に数道場が三組織に分かれていた。本土・沖縄ともに、理論大系・段の決定・技の名称・指導方針・練習着など基礎的な事柄から技までまったく整っておらず、統一の試みもなされたが、不成功に終わった。
 昭和20年代後期になり、戦後の混乱から社会が少しずつ落ち着いてくると、青年たちに余暇が生じてくる。ここに、道具が不要なことに、暴力性も加わり、空手に関心を持つ者が現われはじめたが、社会の荒廃の影響で、暴力的な者が好む傾向が強くなる。そこで、空手でも技術的に簡単ですぐに学べるものが流行する。流行に伴ない、指導者が不足し、空手を少ししか知らない者までが金儲けのために無責任な指導を行った。ここに空手の質的低下が著しくなり、社会的にも低く見られるようになってしまった。
 空手の練習は型中心であったが、昭和10年頃から大学で試合を考える者が出始めた。しかし、旧習に押され消えていった。昭和24、25年頃から一・二個所の道場で防具を考え試合を行う指導者が出始める。これがスポーツ化の発芽と言える。しかし、面・手・睾丸の防具の発明ができず、スポーツ化は進まなかった。

昭和後期

 昭和29年から私は防具の研究に着手し、研究段階の防具で度々選手権試合を行ない、安全性を確認。しかし、空手界全体が型中心であり、試合の見本がなかったため、防具の研究とともに試合技術の研究も行なった。さらに、各道場をまわり、基礎知識・倫理を説明し、会員に徐々に納得させていった結果、昭和32年以降から試合の形を創りあげ、今日の拳道学に至っている。その後、昭和40年代までに世界大会を含む数々の選手権試合を行ない、当時のスポーツ新聞などで大きく取り上げられるようになる。また、防具も改良を重ね、昭和40年に実用新案として認可される。
 昭和40年後期になると、これらを中途半端に模倣した新空手が出現し始める。しかしながら、これらの中には本来の空手の形をなしていないものまであり、現在に至っても本来の空手に近いものからそうでないものまでが混在して普及している。沖縄で伝承されてきた唐手は、高い知識階級の人にのみ伝わってきたものである。しかしながら、明治期の一般公開から本土への普及を経て、技術・倫理において高いものから低いものまで大きな差異が出来てしまい、現在に至っている。

反省

 本来、空手文化は琉球王国をリードする高い知識階級の人々が行っていた文化である。この伝統を引き継ぐには、空手文化を現代・将来の社会をリードする人々が行うに足る文化としなければならない。このためには、空手が抱える問題だけでなく、現代社会の問題も考え、反省をする必要がある。
 現代社会は、先進国の利己主義や経済優先のあやまちが地球の破壊寸前まで追いやっている。大衆を見ると、50年、100年先を見て失敗を防ごうと努力する人から、数百年も時代遅れの考えをもつ人まで様々であるが、全体として近視眼的で金に振り回される傾向にある。権力者・宗教・報道機関などが持つ問題が人々に与える影響も大きい。文化にもレベル的に低いものから高いものまである。文化には光と影の面があるが、大衆は光の面のみ見る傾向にあり、青少年の思考・身体・行動に与える悪影響を与えている文化があることに気づいていない。これは環境汚染同様で文化汚染と言える。現代スポーツにおいては、本来の目的である娯楽と身体運動を忘れ、過度な競争主義による過度な鍛練、スポーツ障害、人間性喪失など多くの問題を引き起こしている。近代オリンピックはその最も顕著な例である。これは古代オリンピックが直面した問題と同じである。古代オリンピックはこれらの理由で知識階級から多くの批判を受け、394年に中止されている。
 一方、空手をみると、技術面・保健面・思想面・指導方法など問題が多い。空手の技術は格闘技術としては非合理で兵法的に説明できないものが多い。技は立ち方・構え方、攻め、受け、投げ、掴み・捩り・外し、一本組手、連続動作、転身、鍛練、秘技に分類できるが、兵法論に合致しないものが多すぎる。指導においては、全てを枠にはめてしまう。習う人もこれに盲目的に従う。このような押しつけ指導では、物事を正しく見つめ、進歩する人間を育てることはできない。このような人間の増加が人類や地球にどのようにしてきたかを真剣に考える必要がある。空手文化の伝統を受け継ぎ、社会をリードする人のための文化にするには、根底から大きく改革しなければならない。